映画あれこれ #3 ケス (英:1996年)

(コスモス村代表の山下が日本スクールソーシャルワーク協会の会報に、”エイブの映画あれこれ”というコラムを2013年~2017年まで執筆し、同氏のお気に入りの映画について雑感を記しているのですが、このコラムの記事を本ブログの読者の方たちと共有したく、同協会に了承を得て順次転載させていただくこととしました。第3回目はイギリス映画の<ケス>です)
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 今回は第一回目で取り上げた「オレンジと太陽」のジム・ローチ監督の父親であるケン・ローチ監督の「ケス」をとり上げることにした。近年は、「麦の穂を揺らす風」や「ルート・アイリッシュ」などメジャーな作品で、その名を知られているが、「ケス」は彼がわが国ではそれほど知られていなかった頃の作品だ。僕がケン・ローチを初めて知ったのも、ヨークシャーの小さな炭鉱町を舞台にして描かれたこの映画だった。
 タイトルの「ケス」というのは、ビリーという中学卒業を間近に控えた主人公の少年が飼っているハヤブサの名前だ。捕まえた野生のハヤブサの雛を育て訓練するという話を軸にして展開される。映画の大まかな内容は、以下の通りだ。
 ビリーの父親は蒸発して不在であり、母親と年の離れた兄との3人暮らし。家は貧しく、母親は仕事に追われている。兄は炭鉱で働いているのだが、ビリーに対してはいつも粗暴な態度をとり、少しも弟を可愛がる様子が見られない。週末には母親も兄もパブで飲んだくれ、ビリーは家の中ではいつもひとりぼっちで過ごしている。学校では威圧的な校長に眼をつけられて体罰を振るわれ、サッカー狂の担任にはいびられ、そのうえに仲間にはいじめられるといった、何とも救いようのない状況の中で暮らしている。しかも、彼は勉強ができるわけでもなく、ルックスがいいわけでもなく、そうかといって性格が愛らしいわけでもない、そんな何も取り柄がないような少年が主役に据えられるのも珍しいことだ。
 孤独なビリーにとっては、ケスだけが唯一心を許すことができる存在であり、ケスの世話と訓練に没頭する。ケスと過ごす時間以外は安らぎがないように見える。だが、だからといって、決して身を縮め、息を潜めながら暮らしているわけではない。それどころか、めげることなくけっこうしたたかに生きている。配達のお兄さんの車から平気で牛乳を抜き取るわ、ケスの飼い方が書いてある本は古本屋で万引きするわ、兄から頼まれた馬券を買わずに使い込んだりもする(これが後で大変なことになるのだが・・・)。
 ビリーは無垢でもなく、健気でもない少年なのだが、そのような描かれ方をされることによって、彼に生命が吹き込まれ、映画にリアリティをもたらす効果をあげている。だから、画面の中で繰り広げられるドラマが、まるで自分の周りであったことや、あるいは自らの過去と共振し、ケスの身に起きた出来事に身悶えし哀しむビリーを画面の中の見知らぬ子どもというよりは、実在する“誰か”であるかのような感覚にとらわれる。
 将来に夢を描くこともできない少年の、たったひとつの心の拠り所を残酷な形で奪い去る展開の仕方はシビアだなと思うものの、ケン・ローチは徹底してビリーに寄り添いながら物語を進めているがゆえに、シビアさはビリーの痛みをヒリヒリと感じさせるスパイスとなっている。観る者が期待するような結末ではないがゆえに、見終えたあとは気分がすっきりというわけにはいかないだろうが、一見の価値がある映画だ。
  地方の炭鉱町で貧しい暮らしをしている似通った境遇の、年頃も同じビリーという名の少年が主人公の「リトル・ダンサー」(英 2000年)<こちらもオススメ>と観比べてみるのもきっと面白いと思う。